ほめる教育が新人をダメにしてしまう【承認欲求による弊害】

ぼくは、「人に認められたい」っていう承認欲求のかたまりだった。

 

ぼくは、小さいころから身長が低くて、コンプレックスの塊だったからだ。

走るのがはやい人やスポーツができる人が、評価されるこども時代、そこに自分の価値はなかった。

そのときから、「ぼくはこのままだと価値がない人間になってしまう」というのが、ぼくのスタートだ。

 

Twitterで、あるツイートをみて、ぼくのいろんな記憶がグルグル頭を行ったり来たりしたので、この記事を書きたいと思った。

 

 ぼくは、19歳の時から飲食店で働いていて、店長も長くやっていた。

この3年間でもアルバイトの面接だけでも、300人以上の人たちと面接をさせてもらった。

その中で感じたことが、自分で自分のことをたいせつにしていない人が多い。

自己重要感(自分のことが大切だと思うこと)が低い人が多い。

「ほめて伸ばす」は、一番カンタンな教え方

人は嫌われることがイヤだ。

 だれの為に注意するのか?

人に注意するときに、「あの人に〜言ったら、機嫌わるくなるから」と、注意したがらない人が多い。

注意する時にも、2つの種類がある。

 

ルールと違う人を見つけた時に、

「私が」許せない感情が我慢できないから、相手に注意する。

②相手が知らないと、相手が困るから、相手に注意する。

 

①の矢印は自分に向いていて、②の矢印は相手に向いている。

 

①と②では、相手に伝わるものが全然違う。

①で伝わっているのは、怒りの感情だけ。

 

本来は、『注意する』とは、相手のためにするもの。

矢印は相手にむけないと、相手のこころには届かない。

 

 

それに対して、私が嫌われたくないだとか、相手に自分がどう思われるかと矢印が「私」にむいている限り、うまく伝わるわけがない。注意して失敗して、もう注意しないって負のスパイラルに突入だ。

 

 

都合が良いのが、「ほめて伸ばす」やり方だ。

 

注意したり、おこったりしなくて良いので、「私」は嫌われない。

だから、「私」にとって都合の良いやり方なのだ。

 

 ほめるとなぜ人をダメにしてしまうのか?

ほめられる為に行動するようになる。

ほめつづけると、人はほめられる為に行動するようになってしまう。

上司にほめられたいから、親にほめられたいから、行動する。

 

行動する目的が変わってしまっている。

 

その結果、人が見ていないと行動しない人を作ってしまう。 

「ほめる」は上から目線

「部下が上司をほめる」「生徒が先生をほめる」って、おかしい。

 

ほめるとは、上から目線である。

 

ほめることによって、上下関係ができ、人をコントロールしやすくなる。

「ほめられたい」という依存関係ができてしまう。

 

ぼくは、300人以上のアルバイトと接してきて思うのが、ほめて育てることは、教える方も教わる方も無意識に上下関係をつくってしまい、無意識にコントロールしてしまっている。

「嫌われる勇気」で有名なアドラーほめる教育を否定している。

承認欲求がもたらす弊害

人はだれしも承認欲求(人に認められたいという欲求)はある。

問題は、承認欲求に偏り過ぎて、「自分」を失ってしまうことだ。

 

承認欲求を追い求めすぎると、他人の目ばかりが気になってしまう。

 

他人の価値基準で生きる限り、表面的なしあわせを感じることがあったとしても、本当のしあわせを感じることができない。

 

本当のしあわせを感じるには、価値基準が「他人」ではなく「自分」でないといけない。

 

 

自分に価値基準をおくには、まずは自分で「自分を認めること」が必要。

自分は「これいいなぁ」って思っても、みんな(他人)が「あっちの方がいい」って言うと、みんなが選んだ方を選択してしまう。これは、自分の選んだモノに自信がないから、他人が選んだモノなら安心って思ってしまっている。

 

自分に自信がないと、「自分の選択」を選択できない。

ほめて育てた結果、他責の人間を育ててしまった

ぼくが飲食店を長くやっていて、最近までわからなかった。

ほめる教育、承認欲求を満たすことをしてきた結果、他人の評価で判断してしまう人間に育ってしまっていた。

 

何か問題がおきたり、失敗したときに、その行動を決めたのは「他人」であるので、決めたその人の責任だと思ってしまう。自分ゴトにとらえることができない。

だから、成長できない。

 

自己重要感を高める

自己重要感とは、自分には価値があると思うこと。

 

まずは、自己重要感を高めて、自分に自信をもつ。

そこからはじめて、他人価値観で生きることから脱却ができる。

 

これが本当にむずかしい。

 

 

ぼくはいろんな人と接していて、どのように伝えていくのがよいのか、まだ手探りな状態で明確なこたえにたどり着いていない。

 

 

いま、ぼくが思っていることは、

小さな成功体験を通して、自分に小さな自信を積み上げていくしかないって思っている。

 

 

そのためにも、どんどん挑戦することが必要。

理屈で教えることではなく、経験でしかわからない。

 

 

その小さな挑戦と、小さな経験の積み重ねが、自分を信じる力に変わってくる。

 

 

 

しあわせは、他人の中にあるのではなく、自分のこころの中にしかない。

 

教育ではなく、共育

ぼくは教育に興味があり、飲食業をとおして「飲食業」ではなく「教育」をずっとやってきた。

10年以上、人に教えることをやり続けてわかったことがある。

 

ぼくは人に教えているつもりだったけど、ぼくも同時に相手から学ばせてもらっていた

 

それに気がついたのも、つい最近。

 

 

「教える」ってこと自体が、上下関係をつくっている。

便宜上、「教える」って言葉はつかうけど、「伝える」って言葉がぼくは好きだ。

 

 

「教える」ときには、教える側も学ぶ側も、共に教えていて、共に学んでいる。

立場は同等なのだ。そこに上も下もない。だから、「ほめる」もそこにはない。

 

 

「教える」とは、上から相手を引っ張りあげるのではなく、後ろから背中をおしたりするものではなく、教える側・教わる側の立ち位置は同じ場所である。

 

同じ場所にたって、同じ方向にむいて、共に歩む。

 

それが、ぼくが思う「教える」。

 

 

ぼくが10年以上飲食業で学んでいたのは、「教育」ではなく、「共育」だった。

 

 

 

▼ぼくが「教える」で一番影響を受けた本が、去年一番読み込んだ本。

「シンプルだけれど重要なリーダーの仕事」守屋智敬(著)

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