ぼくは、「挑戦」ということばをたいせつにしている。
「挑戦」とは、自分でつくった限界の壁をひろげること。
自分のお店のスタッフともよく「挑戦」について話をする。
でも、何か話をしていて、気持ち悪い。
何か違和感。。。。。
違和感の正体
その違和感は、「失敗」ということばの認識の違いからだった。
失敗とは
挑戦の先は成功か学びしかない。失敗とは何もしないこと、行動しないこと。そして諦めること。(大嶋啓介)
挑戦すれば、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。
うまくいかないことが失敗ではない。
ここでは、失敗とは何もしないこと、行動しないこと、諦めることと考える。
失敗の恐怖
先ほどの「失敗」の逆を「成功」とすると、
「成功」とは、何かすること、行動すること、あきらめないこと。
挑戦して、たとえうまくいかくても、あきらめないかぎり、そこに成功か成長がある。
うまくいくかどうかは、能力の問題、タイミング、外部環境など様々な要因があり、自分ではどうしようもできないことも含まれる。
でも、あきらめるかどうかは、自分次第。
成功か成長するのは、自分次第でどうにでもなる。
結局は自分次第でどうにでもなるという、自分にその主導権はある。
失敗を恐れているのは、その主導権が自分にない人である。
他人の目に支配されている人たち
「成功」も「失敗」もそこには、本来『自分』しかいないはずなのに、そこに『自分』以外の『他人』がでてくるから、本質からズレてくる。
それが、『他人の目』だ。
「挑戦」の先には、「成功」か「成長」しかないはずである。
そこでの「失敗」は何もしなかったり、行動しなかったり、あきらめたりすること。
のハズだ。
しかし、そこに『他人の目』が入ると、
失敗とは、うまくいかなかった時に、カッコ悪い・恥ずかしいって感じることに、失敗の定義が変わってしまう。
たとえ、コトがうまくいったとしても、カッコ悪かったり、恥ずかしい思いをしてしまうと、その人たちにとっては「失敗」にすらなってしまう。
「他人」と「自分」の線引き
ぼくたちが「挑戦」の話をする時、話がズレる時がある。ことばの解釈のズレで伝わる内容がかわってしまう。そのことを意識して、伝えたい。
自分もそうだけど、「他人の目」を意識したとき本質からズレてしまう。
「他人の目」を意識しないようにすることは、簡単なことではない。
いま、スタッフと話をしていてよく感じることが、「自分」がいないということ。
「他人」と「自分」に線引きがない。
「他人」と「他人から見た自分」の線引きしか、そこにはない。
つまり、
「他人」で埋め尽くされてしまっている人が多い。
他人の価値観の中で生きている。
「他の人からどう思われているのか」
「みんなが良いって思うモノが、良いモノ」
「みんなが目指しているから、とりあえず自分も目指している」
まずは、他人で埋め尽くされている中から、「自分」を掘り起こすところからスタートしなければいけない。
そして、「自己肯定感」を高めることを、ぼくたちは行わなければいけない。
自分で「自分」を認めることから、はじめて「他人」と「自分」に線引きができる。
その結果、
ぼくたちは、初めて本当の「その人」と出逢えるのである。