はじめて接客業にたずさわった時、
お客様が怖かった……。
「お客様は神様です。」という言葉が原因だった。
この記事の目次
<はじめての接客業>接客がこわくなる言葉
「お客様は神様です」という魔法の言葉。
はじめて飲食店で勤務したときに研修で、教わった言葉が「お客様は神様です」。
「ぼくたちの給料は、お客様からもらっています。だからお客様を神様のように扱いましょう」
もしお客様に水をこぼしてしまったらどうしよう……。
もしお客様が怒ったらどうしよう……。
もしお客様にクレーム言われたらどうしよう……。
ぼくが初めて接客した時は、お客様の顔色をうかがいながら、ビクビクしながら接客していた。
「お客様は神様です」言葉の本当の意味
「お客様は神様です」という言葉は、1961年に演歌歌手の三波春夫から生まれた言葉だ。
しかし、三波春夫が言いたかったことは、「お客様を神様のように扱いなさい」ではない。
本来は、下記のような意味だ。
ぼくはラーメン屋で働いている。
ラーメン屋でいうと、お店というステージが神前だ。
お客様が神様なのではない。お店というステージにあがる時に、自分にスイッチを入れて「雑念を払って澄み切った心」にして、仕事に集中する。
その結果、神様が見えるくらいの心の状態になっている。
というのが、ぼくの解釈だ。
説明文で、「わたしは客席に神を見るのです」とあるが、ぼくが思うに、神は客席にいるのではなく、その人のこころの中にいるのです。
世間一般的にいう「お客様は神様です」は、ねじ曲がって伝わっている。
飲食店の新しく入った新人さんにいつも伝えていること
ぼくは、社員やアルバイトの面接を今までこの5年間で500人以上やってきた。
毎回高校生だろうが外国人だろうが1時間以上面接をしている。
そして、いつも「お客様は神様です」の話をする。
面接に来てくれるほとんどの人が、「お客様は神様です」という意味は、「お客様を神様のように扱いなさい」という認識なので、ぼくはあえてその認識のもと話をする。
「ぼくは『お客様は神様です』って言葉、大嫌いなんだよね」から話をする。
お客様は、お客様であり、
店員様は、店員様である。
どっちが上とか下とかそんなのはない。
お客様も店員様も同じである。
社長だろうが、社員だろうが、アルバイトであろうが、誰がえらいとかない。
世の中に、上も下もない。みんな同じ位置にいて、同等である。
「俺は金を払っている客だぞ」
「俺は金を払っている客だぞ」と自分が上の立場だと勘違いしている人がたまにいる。
お客様はお金をお支払いしていただき、お店側はその対価として商品とサービスを提供している。
そこにどっちが上とか下とかはない。
お客様は自己責任のもと、自分で選んでお店にお金を払っている。
お店側としてはもちろん、数あるお店の中で自分のお店を選んでいただき、お客様は大切でありありがたい存在であることは変わりない。
そこには「お金を払う側がえらい」と考えるのは、違う。
コンビニに入って、チャラチャラして接客している若いヤンキーなクソやろうの店員さんがいたとしても、そこでおにぎりを買うことができるのは、
その店員さんがいてくれるからこそ、ぼくはおにぎりを買うことができるのであり、
そこにそのコンビニをつくってくれたからこそ、ぼくはおにぎりを買うことができる。
そのコンビニを作ってくれた大工さんがいてくれたこそ、ぼくはおにぎりを買うことができる。
その大工さんが使っている道具をつくってくれた人がいてくれたこそ、ぼくはおにぎりを買うことができる。
そこでおにぎりが買えることは、すごくありがたいこと。
だから、お金を払わせてもらっても、「ありがとう」って言いたい。
「ありがとう」って言うと、相手が喜んでくれるので、最初はよく「ありがとう」って他人のためだと思って言っていたけど、言葉って不思議で言い続けていると、本当に「ありがたく」思えてくる。
今は、「ありがとう」は自分のために言う。
「ありがとう」って言わないと気が済まない、自己満に変わった。
だから、ぼくは若いスタッフに「コンビニの店員さんに『ありがとう』って言うようにしましょう」って形からでも良いので言うように勧めている。
その結果、そのスタッフの「接客」が変わる。
まとめ「お客様は神様ではない」
「お客様は、お客様。店員様は、店員様。どちらが上で下でもなく同じだ。」
ぼくは新人のスタッフにいつも言う。
「お客様にペコペコする必要は全くない。堂々と胸をはって接客してほしい。」
自分が「店員様」の立場になろうが、「お客様」の立場になろうが、振るまい方は変わらない。
どちらの立場になろうが、相手に感謝できる心を持てるように、心を磨いておきたい。
まだまだ、いつもそんな心を持ち続けられる自分ではないので、ぼくもまだまだ修行中。
でも、お互いが「感謝の気持ち」をもつことができ、接することができたとき、そこに神様はにっこりしてどこからか見てくれているのかもしれない。
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