「がんばれ」って、ことば。
ぼくは「がんばれ」って言葉を使う時に戸惑う時があった。
「がんばれ」って言葉が嫌いな人もいるので、使うときに困るし、「がんばれ」って言葉にモヤモヤしていた。
この記事の目次
既にがんばっている人に「 がんばれ」って言うこと
一生懸命がんばっている人に対して、
「がんばれ」って声をかけると、相手に「もっとがんばれ」って受け取られないかと思ってしまう。
もしくは「今はがんばりが足らないから、もっとがんばれ」って受け取られないかって心配になってしまい、「がんばれ」ってことばを使うのが怖かった。
そんなことを考えていると、
いざ自分に対して「がんばれ」って言ってもらえると、こころではうれしいし有難く感じるのだけれど、頭では解釈しきれないモヤモヤな部分もあった。
「がんばれ」の主語は「あなたが」ではなく「私が」
ぼくは、この動画を見てスッキリと「がんばれ」という言葉が、こころだけでなく頭でも解釈でき、腹に落ちた。
この動画の人の話し方が気にいらない人も中にはいると思うけど、騙されたと思って最後まで見てほしい。
ぼくは、すごくスッキリした。
ぼくが相手に「がんばれ」って言いたい時、伝えたいことは「がんばってほしい」ではなく、「あなたはがんばれると信じているよ」って伝えたい時。
ただ、こころでは思っていても、言語化までできていなかった。
言葉は人によって「認識」が違うから難しい
ぼくが、言葉を意識するようになって苦しくなってきたことは、人と「言葉」の認識が違えば、同じ言葉を使っていても、伝えたいことが伝わらないということ。
ぼくは、今までたくさんのお店を作ってきた。
お店のスタッフのチーム作りで大切にしていることは、まずは「言葉の認識」を揃えること。
例えば、「教える」という言葉。
ぼくたちのチームでは、「教える」とは「やり方と目的の説明をしたうえで、まずは自分でやってみせて、相手にやってもらって、最後にその振り返りをすること」。
そこまでして、はじめて『教えた』ことになる。
ひとつひとつの言葉の認識をそろえて、チーム作りをしてきた。
そのおかげで、生きる目的が全然違う人と会話ができなくなってしまった。
ぼくの言葉が通じないので、同じ日本語を話していても、全然お互い会話がかみあわない。
「がんばれ」って言葉も、相手と言葉の認識が同じでなければ、おもいは伝わらない。
「がんばれ」っていうと、「お前に言われたくないわ」ってこころに思ってしまう人も世の中にはいる。
相手の表面の言葉しか見ることができず、その言葉の中に込められている「こころ」まで見ることができない。
言葉って、例えるなら「箱」である。
おもいは、その箱の中に詰めるものであり、「箱の中身」である。
言葉のコミュニケーションって、「箱」の送り合い。
人から言葉という「箱」のプレゼントを受け取った時に、外側の箱しか見ることができない人。
人に言葉という「箱」をプレゼントする時に、外側の箱だけキレイな立派なものを選んで中身がからっぽな人。
大人になればなるほど、箱だけはキレイで立派なものを準備することばかりを気にしてしまいがち。
ぼくも油断したり、イライラしていると、つい箱の表面だけ見てしまって、箱を開けることを忘れてしまうこともよくあり、反省してしまう……。
ぼくは、どれだけボロボロの箱であっても、キレイな箱であったとしても、箱の中身を見ようとする人でありたい。
相手にわかりやすいように、中身にあった箱を用意することがやさしさであり、
どんな箱に入っていても中身をみようとすることが受け取る側のやさしさである。
やさしさとは、おもいやりだ。
お互いおもいやりがあれば、外の箱は必要なくなってくる。
そんなやさしい関係をつくっていきたい。
「がんばれ」って応援する人でありたい
自分が本当に苦しいとき、がんばってもがんばっても結果がでない時、
「がんばって!」って言われたとき、
こころに余裕がないと、「もうがんばってるよ!」って思ってしまう。
でも、そんなときでも、相手の言葉の箱につめられた「おもい」を意識を向けたい。
2年前、人生ではじめてフルマラソンを走った。
5時間かけて走った。スポーツなんてしてなかったので、めちゃくちゃキツかった。
その時に、沿道にいる知らない人たちから「がんばって」ってたくさん、たくさーん言葉をもらった。
人生で一番「がんばれ」をもらった。
「がんばれ」って言われると、力が不思議と力がでてくる。
たくさんの人から「こころ」をいただけると、ありがたく感じ、しあわせな気持ちになれた。
人によって、言葉の解釈は違うことを知っていても、ぼくは言いたい。
「がんばれ」
相手からの見返りを求めるわけでもなく、ただ「こころ」を送りたい。
そして、自分自身にも「がんばれ」って言いたい。
ぼくの一番の応援者は、「ぼく」でありたい。
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