「蚊のオナラやノミのあくびについて考えずにいられない」
この本を書いたのは96歳の詩人。
著書のまどさんは、気になったモノを深く考察し、人が考えもしないことを考え、人が感じないものを感じ、ぼくたちがこころの奥にしまいこんでしまっているモノを引き出してくれる。
まどさんの詩を見て、感動するということは、ぼくたちのこころの中にもその感覚があるということ。まどさんのことばによって、その感覚が意識の上にあがってくる。
この記事の目次
本日の読書「いわずにおれない」
著者:まど・みちおさんとは
1909年生、詩人。
「ぞうさん、ぞうさん、お鼻がながいのね〜」
「ポケットの中には、ビスケットがひとつ〜」
「一年生になったら〜、友達100人できるかな〜」
など、日本人なら誰でも口ずさんだことがある詩をつくった方だ。
名前をつけた時点で、その対象を見るのをやめてしまう。
そもそもアリや菜の花っちゅう名前自体、人間が勝手につけたものですよね。われわれが社会生活をするうえでは名前がなくちゃ困るけれど、名前で呼ぶことと、そのものの本質を感じることは別なんじゃないでしょうか。
なのに、「あ、チョウチョだ。あれはモンシロチョウか」と思った瞬間、たいていはわかったような気になって、その対象を見るのをやめてしまう。
言われるとホント納得する。
名前で呼んだ時点で、「認識している」と思ってしまい、それ以上「見よう」としない。
これって、いろんなことにあてはまる。
モノを見ているようで見ていない。
モノを考えているようで考えきれていない。
「知っている」つもりになってしまって、そのものを見ようとしていない。
無生物は劣等なものではない、生物と同じ立派な存在
- 石というのは生きてるわけじゃないけれど、生物と無生物の関係を考えれば、いのちあるものと区別して劣等なものだなとは絶対に思えんのです。
- いのちのない物も生きてるものたちと同じように立派な存在なんですよ。
「生物と無生物の関係を考えれば」って、そもそも関係なんて考えたことがない。
無意識のうちに言葉では表現してさえいないけど、無生物を劣等だと見ている自分に気がついた。
その視点がなかった。
いのちないものの存在と、自分を、並べて考えたことがなかった。
ぼくの中では、生物が存在している今の世界であって、無生物はモノであって、存在するありがたみを考えたことがなかった。
それでも、わかりたい、伝えたいと願う
「結局はわからない、理解し合えない」ということを胸底にとどめ、それでも、わかりたい、伝えたいと願う。わかろうと、伝えようとし続け……。
それは、人とつき合ううえでも、また人間以外のものたちに対するときにも、忘れてはならないことなのかもしれない。
まどさんは、毎年桜がキレイに咲いて喜ばせてくれることに対して、人間の言葉ではなく桜に通じる表現でお礼が伝えたいって思って書いた言葉。
「理解しあえない」相手に対して、わかりあおうとし続けることは、心がけたいとぼくは普段から気にしている。
まどさんのお考えは、『人』にとどまらない。
ぼくは、「美しい桜の木」に対して、ありがたいなって思う。
しかし、桜の木の立場にたって、人間の言葉ではなく、桜の言葉で伝えたいって思ったことはない。
まどさんのありがたいって感じる想いの深さを感じる。
【感想のまとめ】 「いわずにおれない」
いそがしいを言い訳に、ぼくは考えることを忘れてしまっていることに気付かされた本だ。
情報が氾濫し、何かあればググれば解決してしまう。
考えなくても答えは簡単にさがすことができる。
そのなかで、自分で「見つける」ということを忘れてしまっている。
ググって、検索して知ることを横に広がる学びに対して、
自分の頭で考えて、答えを見つけようとすることが縦に深く学ぶこと。
まどさんが、この本を書かれたのが96歳。
96歳になっても、謙虚で素直で、いろんなモノに好奇心が持てるということに、まどさんのこころの圧倒的な深さを感じる。
言葉をたいせつにされている方は、縦に深く思考する。
まどさんの生き方がうつくしい。
ぼくのこころがもっと穏やかで、やさしいこころの時に、もう一度この本を開いて、頭で読むのではなく、こころでまどさんのことばを感じてみたい。
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