ぼくは、「人に認められたい」っていう承認欲求のかたまりだった。
ぼくは、小さいころから身長が低くて、コンプレックスの塊だったからだ。
走るのがはやい人やスポーツができる人が、評価されるこども時代、そこに自分の価値はなかった。
そのときから、「ぼくはこのままだと価値がない人間になってしまう」というのが、ぼくのスタートだ。
Twitterで、あるツイートをみて、ぼくのいろんな記憶がグルグル頭を行ったり来たりしたので、この記事を書きたいと思った。
どんな人でも、言葉で人は変われる。相手からの勇気づけの言葉ひとつで人は変われるんです。でも、その時に絶対に褒めちゃいけない。褒めるって強烈な依存関係を作り出してしまうから。「怒られないため」よりも「褒められるため」の方がよっぽど強い依存関係を作り出してしまうんです。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21)
ぼくは、19歳の時から飲食店で働いていて、店長も長くやっていた。
この3年間でもアルバイトの面接だけでも、300人以上の人たちと面接をさせてもらった。
その中で感じたことが、自分で自分のことをたいせつにしていない人が多い。
自己重要感(自分のことが大切だと思うこと)が低い人が多い。
「ほめて伸ばす」は、一番カンタンな教え方
人は嫌われることがイヤだ。
この記事の目次
だれの為に注意するのか?
人に注意するときに、「あの人に〜言ったら、機嫌わるくなるから」と、注意したがらない人が多い。
注意する時にも、2つの種類がある。
ルールと違う人を見つけた時に、
①「私が」許せない感情が我慢できないから、相手に注意する。
②相手が知らないと、相手が困るから、相手に注意する。
①の矢印は自分に向いていて、②の矢印は相手に向いている。
①と②では、相手に伝わるものが全然違う。
①で伝わっているのは、怒りの感情だけ。
本来は、『注意する』とは、相手のためにするもの。
矢印は相手にむけないと、相手のこころには届かない。
それに対して、私が嫌われたくないだとか、相手に自分がどう思われるかと矢印が「私」にむいている限り、うまく伝わるわけがない。注意して失敗して、もう注意しないって負のスパイラルに突入だ。
都合が良いのが、「ほめて伸ばす」やり方だ。
注意したり、おこったりしなくて良いので、「私」は嫌われない。
だから、「私」にとって都合の良いやり方なのだ。
ほめるとなぜ人をダメにしてしまうのか?
ほめられる為に行動するようになる。
ほめつづけると、人はほめられる為に行動するようになってしまう。
上司にほめられたいから、親にほめられたいから、行動する。
行動する目的が変わってしまっている。
その結果、人が見ていないと行動しない人を作ってしまう。
「ほめる」は上から目線
「部下が上司をほめる」「生徒が先生をほめる」って、おかしい。
ほめるとは、上から目線である。
ほめることによって、上下関係ができ、人をコントロールしやすくなる。
「ほめられたい」という依存関係ができてしまう。
ぼくは、300人以上のアルバイトと接してきて思うのが、ほめて育てることは、教える方も教わる方も無意識に上下関係をつくってしまい、無意識にコントロールしてしまっている。
承認欲求がもたらす弊害
人はだれしも承認欲求(人に認められたいという欲求)はある。
問題は、承認欲求に偏り過ぎて、「自分」を失ってしまうことだ。
承認欲求を追い求めすぎると、他人の目ばかりが気になってしまう。
他人の価値基準で生きる限り、表面的なしあわせを感じることがあったとしても、本当のしあわせを感じることができない。
本当のしあわせを感じるには、価値基準が「他人」ではなく「自分」でないといけない。
自分に価値基準をおくには、まずは自分で「自分を認めること」が必要。
自分は「これいいなぁ」って思っても、みんな(他人)が「あっちの方がいい」って言うと、みんなが選んだ方を選択してしまう。これは、自分の選んだモノに自信がないから、他人が選んだモノなら安心って思ってしまっている。
自分に自信がないと、「自分の選択」を選択できない。
ほめて育てた結果、他責の人間を育ててしまった
ぼくが飲食店を長くやっていて、最近までわからなかった。
ほめる教育、承認欲求を満たすことをしてきた結果、他人の評価で判断してしまう人間に育ってしまっていた。
何か問題がおきたり、失敗したときに、その行動を決めたのは「他人」であるので、決めたその人の責任だと思ってしまう。自分ゴトにとらえることができない。
だから、成長できない。
自己重要感を高める
自己重要感とは、自分には価値があると思うこと。
まずは、自己重要感を高めて、自分に自信をもつ。
そこからはじめて、他人価値観で生きることから脱却ができる。
これが本当にむずかしい。
ぼくはいろんな人と接していて、どのように伝えていくのがよいのか、まだ手探りな状態で明確なこたえにたどり着いていない。
いま、ぼくが思っていることは、
小さな成功体験を通して、自分に小さな自信を積み上げていくしかないって思っている。
そのためにも、どんどん挑戦することが必要。
理屈で教えることではなく、経験でしかわからない。
その小さな挑戦と、小さな経験の積み重ねが、自分を信じる力に変わってくる。
しあわせは、他人の中にあるのではなく、自分のこころの中にしかない。
教育ではなく、共育
ぼくは教育に興味があり、飲食業をとおして「飲食業」ではなく「教育」をずっとやってきた。
10年以上、人に教えることをやり続けてわかったことがある。
ぼくは人に教えているつもりだったけど、ぼくも同時に相手から学ばせてもらっていた。
それに気がついたのも、つい最近。
「教える」ってこと自体が、上下関係をつくっている。
便宜上、「教える」って言葉はつかうけど、「伝える」って言葉がぼくは好きだ。
「教える」ときには、教える側も学ぶ側も、共に教えていて、共に学んでいる。
立場は同等なのだ。そこに上も下もない。だから、「ほめる」もそこにはない。
「教える」とは、上から相手を引っ張りあげるのではなく、後ろから背中をおしたりするものではなく、教える側・教わる側の立ち位置は同じ場所である。
同じ場所にたって、同じ方向にむいて、共に歩む。
それが、ぼくが思う「教える」。
ぼくが10年以上飲食業で学んでいたのは、「教育」ではなく、「共育」だった。
▼ぼくが「教える」で一番影響を受けた本が、去年一番読み込んだ本。
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